Imagine Fukushima
Imagine Fukushima TM

IMAGINE FUKUSHIMA展は、アートの力によって東日本大震災の復興支援が少しでもできればと、チャリティー展として2012年からスタートしたWATERMARKの企画です。
現在2年に一度のペースで開催しており、次回は震災後7年目となる2018年に、第四回の開催を目指しています。

3.11から年月が過ぎるにつれ、急速な風化が問題視されています。
世界ではあらたな事件や災害が次々と起こり続けるなか、私たちもシングルイシューを掲げつづける意味についてとても悩みました。
しかし多くの方々と同じように、東日本大震災と続く原発事故から、新たな視座を得たことによって変容しはじめた私たちの世界観、個人の意志や思い、あるいは視座そのものを、展覧会を通じて共有し、福島への思いに繋げて行きたいと考えています。

第四回IMAGINE FUKUSHIMA展 2018年2/22(木)-3/6(火)*水曜日休


伊藤隆介 × 山口啓介 LOST & FOUND


会場:コート・ギャラリー国立 協力:コート・ギャラリー国立

東京都国立市中1丁目8−32 http://www.courtgallery-k.com

<関連イベント>
■アーテイスト トーク 伊藤隆介+山口啓介+武居利史(府中市美術館学芸員) 3/4(日)14:00- 無料 
■「カセットプラント」ワークショップ :2/24(土) 13:30-15:00 (定員あり)
音楽用のカセットケースの中に花や植物を樹脂で封印し、その遺伝子を保存し未来へ残していくことをコンセプトとした立体作品です。
*ワークショップでは、実際に花や植物に触れながら、ギャラリーのガラス窓にカセットプラントを積み上げて設置し、インスタレーション作品を完成させます。
お申し込み:https://motion-gallery.net/projects/ImagineFukushima4
問合せ: info@watermark-arts.com /tel 042 573 6625/ WATERMARK 清水)

本展に向けて 伊藤隆介×山口啓介 往復書簡 がスタートしています。ぜひご覧ください。

<進捗情報を随時更新します。>



2018.1.29
2月の本展に向けてスタートした伊藤隆介さんと 山口啓介さんの往復書簡。更新しました。
*無断での転載・引用はお断りいたします。
山口啓介書簡 3

拝啓 今日は一月四日です。先程BSで放送されていた「2001年宇宙の旅」(一九六八年)を見ていたのですが、首を長くして待っていた(笑)、昨日届いた伊藤さんのお手紙の二信目が「ジョーズ」(一九七五年)(これも同BSで一月一日で放送)に触れられていたので、良いタイミングだったのかも知れません。同じく触れられている「タワーリング・インフェルノ」(一九七四年)公開当時は、父親の転勤によって家族で福岡市に移住していて、博多区中洲の映画館で初めてロードショウの“一本立て”で見たので鮮明に覚えています。  その頃、福岡随一の繁華街である中洲でも、映画とは大体二本立てで、東京や大阪で封切られた作品が九州に届く頃には時間差もあり二、三本ぐらいセットで組み合わされて安価に公開されるのが普通でした。伊藤さんの手紙でも挙がっていた「ソイレント・グリーン」(一九七三年)、最初は恐らく母と見に行った「エクソシスト」(一九七三年)以降、火がついたようにひとりで映画館に通いだして、中学生になった頃には、そのような状況のお陰もあり、ひどい時で三十本くらいの映画を見た月もあったと思います。一九七五年に共に日本で公開された「タワーリング・インフェルノ」と「ジョーズ」を福岡でロードショウ公開で見ましたが、一九七〇年代中盤は手紙で触れられているように「パニック映画ブーム」と呼ばれているようですね。
 その原動力の一つは確かに若いスピルバーグの才能に負っていて、無名時代の彼の出世作となる「激突!」(一九七一年)以降、まるでジェットコースターに乗っているような躍動感で、ヒッチコックの「鳥」(一九六三年)のような先例があるとはいえ、さらに映画を物理的で発汗的な“体感”の場に変えたことにあるのでしょう。それはハラハラさせ、驚かせ、楽しませるという、娯楽の基本的な性質に向かって先鋭化していくのだと思われます。それに比べると「2001年宇宙の旅」という映画が、現実世界がアポロ計画の高揚した雰囲気にあったとはいえ、巨額をかけてエンターテインメントの産業の真っ只中で制作されていることには驚くほかありません。ちょうど今年で五十年前となるあの映画の画像は、今日見てみてもなお驚異的ですが、後半部に向かってどんどん娯楽性から逃れていく。
 現在まで無数の言葉がこのキューブリックの映画について寄せられているでしょうから、私がここで何か言うこともないのですが……モノリスと、後半部のロココ調のような調度品に囲まれてショーケースのように床から発光する部屋、その部屋の中に唐突に置かれている船外活動カプセル・スペースポッドとのシュールな組合せ、その部屋の中で食事をする老人とその臨終、自身の行く末を目撃するボーマン船長の老いていく顔、最後のシーンに現れる死んだ魚のような大きな目をもつ歳児の、それら全てにわたるグロテスクで倒錯的な美。物語に回収されることをはぐらかす、あるいはどのようにも、幾層にも解釈できるような手法は、私たちのよく知る現代美術の方法(もしかしたらキューブリックの方が特にアングロサクソン系の現代美術に影響を与えたのかもと思えるほどの)ですね。  この映画とある意味では似たような感情を起こす映画を、私は最近見ました。それは「ブレードランナー2049」(二〇一七年)ですが、一言でいうとエンターテインメントの目的で制作された映画も芸術のような洗練と進化の仕方をする…ということを目の当たりにしたことへの当惑というのでしょうか。前作「ブレードランナー」(一九八二年)は、今では伝説的な映画となっていますが、最初の公開で見た私の印象は一種のカルト映画というもので、公開後から時間が経って熱心なファンが生まれ、映画制作者に影響が広がった後でも何度も見ているのですが、なぜか私自身の中ではこの最初の印象があまり変わらないのですね。
 「ブレードランナー2049」は、前作から三十年後の世界を描いていて、前作の時代設定が二〇一九年だったので新作が「2049」なのですね。現実世界では前作の制作時一九八二年から三十五年経っているから、出演するハリソン・フォードも現実に七十五歳の老人になっている。
 ところが、物語の継続性と設定をそのようにリアルにも踏襲しているのに、一見して似て非なる、まったく質の異なる映画となっていました。結果としてこのように芸術化してしまった映画が、多くの観客の期待と予想に反し、エンターテインメントの本来の目的である興行収入の目標を下回ったとしても不思議ではありません。
 しかし、これは現在で芸術というものに携わる人間にとっては、さまざまと考えさせられるシリアスでリアルな問題です。そして、これもちょっと唐突で、ドンキホーテ的な滑稽さを帯びることを自覚しているのですが、この一億五千万ドル(一六五億円)もかけて制作され“絵画化”した映画に、美術家、画家である自分自身が、どのように一枚の絵画で対峙できるのか……と何だか突きつけられたような気分にもなったのでした。

   いずれにしても、アポロ十一号計画による月面着陸が一九六九年七月二十日ですから、二〇〇一年には星間旅行、二〇一四年では空を飛ぶ自動車が行き交う都市が出現できていて、あるいはもしかしたらこの延長で近未来は二〇四九年の世界も映画のようなディストピアにもなっていてもおかしくはないように思いますが、現実世界は三歩進んで二歩下がるというような多層的な迂路となって、線的な進み方をしないものですね。

 さて、伊藤さんの今回のお手紙は多岐にわたって触れられており、どこからこの返信を書き出そうかと思っていたところ、冒頭のようにちょど偶然に放映された映画のことから始めたのでした。正直のところ、今回の手紙を読ませて頂き、あるいは伊藤さんが多少とも同世代による直感からこちらに合わせて頂いているのかなと思われるぐらい、私自身の関心と重なることがあって、少なからずびっくりしているのです。
 十月の初会合の際、加納光於さんとの間で行われた往復書簡(新聞紙大のペーパー)を清水さんよりお渡ししておりましたが、そこに記してあるように私も去年、あの「ラスコー3」というラスコー洞窟のレプリカを科学博物館で見ていました。また同じく興福寺と「快慶」展のことを記していましたが、初会合の後、伊藤さんも奈良に行かれ、東大寺周辺を訪れる機会があったとメールで頂きました。今回の手紙には、その寺院を「器」ということから考察されていましたが、この二信はとくにこの「器」という言葉と、「地獄絵」ですね、この二つの言葉が重要だと思うのですが、実は、私自身にとっても、この「器」と「地獄絵」はずっと関心を持ち続けてきたものでした。
 昨年は奈良国立博物館では「快慶」展の直後に開催された「地獄極楽への扉 源信」展を見に行ったのですが、《地獄草子》や《六道絵》などの地獄絵をかなり見ることができました。《地獄草紙》には鉄の臼で人間がすり潰されたり、他の地獄絵には人間が釜茹でにされているものがありましたが、昔にイタリアに行ったとき、彼の地の地獄絵も釜茹での刑が描かれているのですね。臼も釜も共に「器」でもあります。
 私にはある時期、心臓をモチーフに描いた絵があるのですが、心臓も器のかたちをしています。臓器というほどに人間の身体には「器」という文字が各器官につけられています。まあ、人体そのものが器なのですね。ただ、なぜ私が器に惹かれているのか…は自分自身ではあんまり言語化できないのですね。
 イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンの著作に『スタンツェ』という不思議な本があり、スタンツェとはイタリア語で部屋、そこから転じて保管庫という、つまり器とも解釈できるような言葉にも思えます。保管庫といえば、私自身は遺伝子の保管庫である「方舟」をやはり思い出すのですが、伊藤さんも少し触れられているように、地政学的にも日本列島そのものが、外来のものが「バッファ的に溜まって」いくところがあるようで、実際、中国人画家の同世代の友人は、中国で読めない昔の書物が日本で読めると喜んでいるのです。彼に言わせれば、日本人は比較的昔のものをバランスよく大事にしていると。であれば美術館、博物館、図書館などは、やはり時間の器として存在しているところに、本来的な存在の意味があるのでしょう。

   伊藤さんは――どうも日本人(というか、この列島に住んできた人たち)は、「器」自体を作ることには非常に長けていたけれど、信仰をはじめとする「中身」を詰めるのは苦手だったのかも…というか、回避して生きてこれたような気もします――と書かれています。
 そのイメージに同感しつつ、少し、伊藤さんが問題とされている問いとはズレていると自分でも感じるのですが、日本社会の巷では同調圧力とか空気を読まない人を嫌うような、暗黙の了解の成立、“空気”という一見見えない器をつくるともなく形成していく、一種“なっていく”という感覚は、ちょっと特異なものがあると感じるのですね。この“空気”という器に限らず、器というかたちは、その器の中に浸かっている間は、実は見えないものではないでしょうか?
 たとえばよく日本を知るには日本を出て外国に行くのが良いなどと言われますが、その器から一旦でも出ないと器自体のかたちは認識できないようにも感じるのです。一種の「対象化」、外へ出ること、断絶、卒業、帰還、或いは自分の経験にないものへの想像力などの幾層かの要素を経て、器のかたちが外在化するような気がします。
 たとえば、私などは伊藤さんが奈良の寺院を見て考察された印象をすぱっとこの手紙のように書くとき、やはり北海道という近畿圏から遠く離れたところから、対象化された目の潔さを感じるのですね。ただ、奈良の仏像は、私見ですが、インドから伝わり中国での一千年に渡る様々な教典の編集作業を経た渦中で順次にもたらされた仏教の最終形態として保管されているものの一つだとも思うのですね。その上で、もし日本人が器をつくるのが長けているとイメージできるとしたら、実は異国で中身から自ずと形成されて来たかたちの表層を模倣することがむしろ得意だったと言い換えることもできるかも知れません。しかし模倣=ミメーシスとは技術・芸術の本質であり、日本人のその分野での適性をあらわしているとも思うのです。

 地獄絵についても、同じようになぜそれに自分が惹かれるのか、あんまり言語化できないようです。伊藤さんは「戦争ごっこ」をそこに見て、なおかつ戦後民主主義の時代に育った私たちの、八十年代に“新人類”とも呼ばれた“シラケて”平和ボケした世代を自ら引き受けて、居直り(失礼)とも取れるような、大人になれない永遠のこどもである私たち以降の世代(或いは全ての戦後世代を含めて)を幾分自虐的にご自身に規定されているようにも読めるのですが、そこに伊藤さんのある種の正直さを感じています。
 しかし、私は比較してもう少し屈折していて、そのようなこどもを卒業できない心性に対して、自分自身の内で自己嫌悪と怒りが起こっている。たとえば、ある空海の伝記番組を見たことがあるのですが、ドラマでは不動明王というモデルが日本にまだ存在しない時代に、牙を剥く不動明王を手探りで仏師につくらせようとしている。何を彫って良いのか苦闘する仏師に、空海はもっと怒りが足りないと仏師をどんどん追い込んで行くのですね。そのとき、この世を救うにはもっと怒りが必要だ…と言っていたのですね。地獄絵とは、この世の悪行への戒めの目的で描かれたとは言えますが、ある種の地獄絵にはそれを描く絵師の筆先に、この世で見る地獄と自分自身の内にある怒りが憑依しているようにも見えることがあります。
 一昨年、「シン・ゴジラ」という映画が公開され、あの映画は伊藤さんが書かれているように、東日本大震災後に制作された「都市の大破壊を見せ場にした映画」でした。あの映画にはアニメ監督であった庵野監督の特性が発揮され、見事なまでにマンガ的化された人物・組織・物語の調教された描写に乗れなかったのですが、大画面に耐える精密な都市ビルの再現と特撮技術と音響効果など、バーチャルリアリティーの進歩は目を見張りました。  そして、自分の働く会社ビルがゴジラに破壊されるシーンを見た鑑賞者が歓声を上げたというネットの記事を見て、なんだかわかると思ったのですね。東京という巨大な都市が人の心に起こす無意識的な抑圧があって、それが怒りの化身となったゴジラの一撃で開放される。これはかなり倒錯した見方ですが、東京のためだけに発電していた福島第一原発事故により故郷を失った人びとの理不尽な怒りをも、放射線を発するゴジラに化身させ東京の破壊に重ねて見せようとしている…その意味で複雑な感情と意図も絡んでいるのではないかと思うのです。そして確かにあの映画はエンターテインメントとしての地獄絵的要素を持っていました。

 伊藤さんは今回、私が自分自身に向かってまず書き出してみた三つの問について、真面目に答えようとしてくださった。つまるところ、三番目の問に先の二つが収斂されると思うのですが、日本の社会から辛うじて現在もまだ残っている戦争体験者の記憶が、完全に失われたとき、私たちは今までのようにバーチャルリアリティーとしてエンターテインメントの中でのみ、戦争を消費できる状況が続いているのかどうか?ということだと思うのです。
 一方で、一見矛盾したり不可解な戸惑い、未だに経験していないことを想像できる直感、難解にならざるを得ないような多層的な構造は、それはむしろエンターテインメントが成立する過程で、無駄で邪魔なものとして省いていったものの内にあったように感じるのです。しかしそのようなもののうちに、存在のリアリティーがある。
 伊藤さんは「僕にとってアートとエンターテインメントにボーダーは(あまり)ないということになります」と書かれていますが、その伊藤さんが「物語を紡ぐことについての興味が(ほとんど)ない」というとき、実は「アートとエンターテインメントの間にボーダー」を意に反して自ずと線を引いるとは言えませんか? なぜなら世界の現実は多くの娯楽映画のように一時間半ぐらいで編集され整えられた物語と異なり、いつもでもそれと矛盾するような多層的な在り方をしていると思うからです。それを実感されているからこそ嘘の物語をまとめる努力に興味がないのではないでしょうか? おおよそ「メタフィクション」に興味ある人が、そのような嘘を暴露せずに物語を整えることは困難なはずであり、一方、エンターテインメントは、一般的にはその意図を排除するものだろうと思うからです。
 そして、本当のところ、戦争を知らない私たちの世代も、実は戦争を既に知っているのではないでしょうか。わたしたちは、その兆しは東日本大震災の惨禍の中に、その破壊力を目の当たりにしてまだ六年と十ヶ月ほどしか経っていないのですから。
                                                              二〇一八年一月五日    山口啓介
伊藤隆介 様

伊藤隆介書簡 2
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 相変わらず、返信が遅くて申し訳ありません。年末まで学生指導(卒業制作)などの業務に追われているうちに、大晦日、新年と迎えてしまいました。子どものころは正月も随分と楽しみだったはずですが、歳をとるにつれ、カレンダー上で新しい年が来るだけで、職場に行かずに溜まった仕事をこなす予備日に変わってきているような気がします。なんとも味気ないものです。
 …と書いてはみましたが、よく考えてみると、それは多分にフィクション化された記憶かもしれません。実は父の実家が仕出し屋なので、子どものころの年末は徹夜で重箱にお節料理を詰めるのを手伝ったり、配達用のバンの助手席で地図を見るということがありました。「日本レコード大賞」も「紅白歌合戦」もカーラジオで聞くような深夜に及ぶ配達もあり、注文主はやきもきしたと思いますが、小学生が伝票を持って現れるとさすがに怒るに怒れないという「機能」を果たしていたのだと思います。子どもだと、任侠稼業の要塞のような事務所兼住居にも入れてもらえたり、郊外にある寂しげな結核の治療施設に行ったり、一種の社会見学も兼ねて嬉しいものでした。つまり世の中のイベントとは、実は舞台裏が楽しいという(誤った?)刷り込みがあり、そもそもゆっくりのんびりの正月というのが実は苦手なのかもしれません。

 さて、随分と時間が経ってしまいましたが、前回に続き、昨年の10月にお会いしたときから始めさせてください。
 山口さん、清水御夫妻と国立で会場の下見をした翌日、国立新美術館にて「安藤忠雄展―挑戦―」展を見ました。様々な挑戦を続けている安藤忠雄さんのまさにショールームといった風で、多くの国の人たち(特に若い人たち)が真剣に鑑賞しており、世界的な尊敬が垣間見えるようでした。 
 建物という「器」を満たしていくのは、使う人たちの生活や人生であるとは、建築家がよく言うことです。近年の若い住宅設計者がクライアントに寄り添う(少なくとも姿勢は見せる)のに対し、安藤さんのような個性的で、住む人の生活にも美しさを要求する建物は、文化的な「矯正具」という印象を受けました。展覧会の目玉は代表作「『光の教会』を、原寸大で野外展示場に再現!」というコーナーで、大阪にある教会内部が精巧に再現されていました。
 本物よりまがい物が好きな性質(たち)の僕としては、もっぱらコンクリートの質感に感心しましたが、六本木に現れた光の十字架(十字架の形の窓)は信仰とは全く別の意味を持つものでした。そこにあるのは、信仰から切り離された、純粋に空間、つまり「器」としての教会でした。タリバンがバーミヤンの大仏の破壊にこだわったように(多分にショック・バリューを通したプロパガンダをねらった行為ですが)、多くの人たちにとっては信仰とモノ、空間は不可分なものです。安藤さんは、あえてその信仰(機能)を引き剥がして、純粋に建築という「器」を提示したかったのでしょう。模造の「光の教会」を訪れた、そもそも信心深くは見えない鑑賞者たちが「スゴイね」とつぶやくほどに(それは、安藤さんの見事な空間設計と、模型のリアルさの両方についての感嘆だと思います)、信仰は遠ざかり、アイデアや見栄え、あるいは見世物としての存在感が前に出てくるようでした。なんだか倒錯した感覚を得ましたが、その割り切りは清々しいほどでした。

 この展覧会をそういう風に見てしまったのは、僕自身が近年、人間の「文化」というのは結局のところ「器」作りではなかったかと思っているからかもしれません。
 文化の定義は人それぞれですが、古代人が残したものの多くは、初期は石器などの狩猟器具、まじないの道具、配膳や貯蔵に使う土器、灯を取る石製ランプ(科博の「世界遺産ラスコー展」で見ました)などの「器」です。特に日干しのものから火を使って焼成したという部分に、テクノロジーとしての飛躍を感じます。甕(かめ)や古墳は遺体を納める「器」ですし、人間を生きたまま空に放り投げる「器」がソユーズであり、逆に一度に多くの人間を殺傷できる仕組みを詰めた「器」がICBMということになります。まじないの道具から発展した絵画や彫刻は長く信仰や(為政者の)歴史を記録するものでしたし、制度や物語は文字(記号)を使って書物といった「器」に保存され、現在は個人の記憶が画像としてスマホやクラウドに集められています。交換できるモノの価値が込められた古銭はプラスチックのカードに変化し、これまた物語(代償行為)を収めた本やDVDといった「器」を購入したり借りたりすることに使われます。
 文化の固有性とは、その「器」に何を詰めるかということでしょう。ぐるっと見回すと、どうも日本人(というか、この列島に住んできた人たち)は、「器」自体を作ることには非常に長けていたけれど、信仰をはじめとする「中身」を詰めるのは苦手だったのかも…というか、回避して生きてこれたような気もします。当然、日本にだって信仰に関わる文化があったという反論があるかと思います。先日は奈良で東大寺や仏像を拝観してきた(眼福!)のですが、考えれば考えるほど、大仏や寺院の建造とは土着性や地域性といった視点とは無縁な、乱暴に言えば必要からの創造や生成ではなく、外来の神や思想を輸入して国を治めようとしたシステムです。当時の(今も)人民の生活からは、聞いたことも見たこともない色や形や量のモノを作る、突飛ともいえる公共事業に見えます。
 ただし、いったん輸入した信仰のシステムというのも、それはそれで高度な知の「器」でしょうから、その精度を上げ、解釈を深め(拡げ)ていくというのは、日本に住む人たちの得意な部分ではなかったかと思います。とりわけ、国境で隣り合う地域や国との関係において文化が常に変化するというよりは、海を隔てているために情報がバッファ的に溜められていき、その溜まりの時間の中で熟成、解釈されてゆくという形態のようではなかったかという実感があります。バッファを生むのは外来文化の流入が--朝鮮半島経由か大陸から直接輸入か、葡萄牙(ポルトガル)か和蘭か英吉利と--おそらく時の権力の情報の源泉としての国際政策とつながっており、流動的な変化というよりは、政治的方針の変更というディケイド毎のスパンであったからではないかと推測できます。民主主義も「中身」というよりは、天皇制や全体主義に替わる「器」として捉えられていたのか、写真家の林忠彦さんの本では、終戦直後は解放された共産党員の街頭演説に元憲兵だかが感動して泣いていたという記述がありました。
 戦後にアメリカ流の民主主義とともに輸入された「器」のひとつに、原子力発電もあげられるでしょう。この「器」は熱の神を封じ込め、無限にエネルギーを作り出せるはずのものでした。この神は列島の自然や生活と共に存在してきた八百万の神といった穏やか神ではなく、渡来の、人間が作った神です。それは豊穣を約束する反面、怒ると止められない神でもありました。その怒りの半減期すら数万年という、人間の生きる時間のスケールとはかけ離れた、まさに神の時間でした。その結果、私たちは災害にあった地域からの魚介、野菜、土に、その神の祟りがないかと恐れているわけです。一方で、我々が生活する震災後の社会が、世界の潮流とは違った方向の、いわゆる原子力ムラの逆襲を許しているというのも、日本独特のバッファ状態の中にいるということなのかと思ったりします。

 さて、山口さんの「娯楽って何なのか」という直球の問いかけについて、エンターテイメントやポップカルチャー、そして美術について思いをめぐらせていますが、考えるほどにわからなくなりますね。それは、僕自身がその中にどっぷりと浸かって成長し、あまり対象化したことがないからだと思います。論理付けを試みるほど堂々巡りをするような時間を過ごしました。  先ほどから「器」について書いていますが、所有できるモノとのしての「器」の最たるものが建築だとすると、近代以降に現れた映画というポップカルチャーは、フィルムという情報を配給する器はあっても目的は所有ではなく(視覚)体験の共有でした。映画というメディアでは19世紀の終わりにフランスのリュミエール兄弟や、アメリカのエジソンとイギリスのディクソンといった技術者が発明するや、すぐ興行が打たれました。誕生してすぐに一般大衆を対象とした商売として成立したのは、権力や宗教に奉仕してきた従来の視覚表現(芸術)とは大きく異なる点です。当初はメディア自体の特性も不明だったので、とりあえず「くしゃみをする男」とか「駅に着く機関車」といった動く被写体を撮影し、新しい発明を見せるという業態でした。双頭の仔山羊の剥製や、人魚のミイラといった怪しげなものと並ぶ場合もある、表現や芸術というよりは物珍しさを軸とした見世物だったようです。物語が映画についてきた(演劇化)のは少し後からになりますが、すぐに労働者や移民(社会的には、持たざる者と言っていいかもしれません)を対象とした大ビジネスへと展開していきます。  複製技術としての音楽(レコード)も映画も発明王エジソンが関わっていますが、山口さんの指摘された通り、音楽が広く複製文化(娯楽)として浸透したのは、映画より後の時代のようです。録音された音源の存在はもっと古いと思いますが、今で言うプレーヤー(再生機)の所有は、当初は一部の(おそらく裕福な)人たちや営業用に限られたのだと推測されます。そもそも「芸能」としての音楽は、およそ声や簡単な楽器(手拍子)があれば成立した、「モノ」として残らない「体験」だったのに対し、音源を保存する「器」の発明によって絵画や彫刻といった美術表現と同じく所有者を持つ存在へと昇格した、というべきか退行したのでしょう。(もちろん、それ以前も雅楽や宮廷音楽などの「所有方法」も存在はしたものの、楽譜という記号や演奏家といった「解凍ソフト」など、莫大なコストが必要とされたことでしょう。)
 とはいえ、視覚表現の方も奉納や所有されるべきオフィシャルな絵画の傍の、法隆寺金堂に残された似顔絵や性器の落描きを思うと、僕ら下々の祖先もなかなかやるなぁ…という気持ちになります。歴史にはほとんど残らない、こういった「絵画」がエンターテインメントとしての視覚芸術の祖先になるのかもしれません。それと共に僕が気になっているのは「地獄絵」というものです。これは生前に罪を犯した亡者が針の山や血の池で苦しみにあう様子を描いたビジュアルな戒めで、もちろん信仰のツールである訳ですが、幽霊画などと共によく年一回のご開帳というシステムがあるのをみると、少なくとも近代以降は「怖いもの見たさ」の共感を前提とした一種のエンターテインメント性を持った存在ではなかったかとも推測しています。
 アメリカの最初の劇映画もドイツのオーバーアマガウ村で五年に一度催されるキリスト受難劇(の贋作)と言われており、絵画から映画へ多くのテーマやジャンルが起こっては廃れてきたと想像できますが、エロス(ポルノグラフィ)と共に、死や地獄といった超越的な世界を世俗的な興味から覗いてみたいという欲求は主題として残り続けています。前回触れた「ゴジラ」(1954)、「世界大戦争」(1961)、「マタンゴ」(1963)など、円谷英二らが戦後10年も経たない時期から、おそらく「後ろめたさ」を感じながらも連発した大掛かりなスリラー映画とは、この地獄絵の系譜だと思います。とりわけ、僕らが小学生だった時代はパニック映画ブームで、「日本沈没」(1973)、「ノストラダムスの大予言」(1974)、「東京湾炎上」(1975)、「新幹線大爆破」(1975)、戦勝国の方でもテレビ番組「原子力潜水艦シービュー号」(1964)、「宇宙家族ロビンソン」(1965)、「タイムトンネル」(1966)を創造したアーウィン・アレンが「ポセイドン・アドベンチャー」(1972)、「タワーリング・インフェルノ」(1974)を手がけたほか、他社も「大地震」(1974)「ソイレント・グリーン」(1973)、「2300年未来への旅」(1976)などのディストピアものが続々と公開され、いくら中東の戦争やオイルショック、公害問題などを反映した世相とはいえ、ちょっと人類は滅亡しすぎなんではないかという映画館の状況でした。(それに辟易した世代が生み出したのが、「スター・ウォーズ」(1977)という、ハイテクを使った神話というジャンルです。)
 子どもとマニアが怪獣ものに惹かれる理由の第一は、怪獣による文明の破壊や、化学兵器による攻防、つまり「戦争ごっこ」を見たいわけですが、その子供たち(我々のことですね)がある年齢に達すると、そういった子供っぽいものにこだわり続ける言い訳も含めて、ことさらに「核の脅威」「平和への希望」という言い訳を加えるわけです。が、それは映画人に限らず戦後の乗り越えた日本人のデフォルト的な心情であって、円谷英二(や、本多猪四郎監督)の製作上のパートナーで、特撮ものと戦記もので東宝映画を牽引し、社長にまでなった田中友幸プロデューサーにとっては、正しく映画という「見世物」づくりを敢行したのだと思います。これについては、元旦の文春オンラインでベストセラー「ノストラダムスの大予言」(1972)の著者・五島勉さんが、その映画化について「本が売れた段階で、東宝がぜひ映画にしたいと言ってきたんです。だけど、彼らの根底にはゴジラ体験があり、優秀な人たちだったけど話が合わなかった。彼らはゴジラ的な恐怖娯楽を入れたい。私はもっとリアルな国際政治を入れたいと思ったけど無理でした。」と述べていました。
 これらの映画では、巨大ビルが崩壊し、火炎や津波で人々が飲み込まれるか、つまり人々の死に様が臨場感のポイントになっており、それをいかに迫真に表現できるかというところに趣向と技能を凝らしています。つまり、怖いほどベターなわけで、「日本沈没」で漁村を飲み込む津波(光学合成がリアル)、「ノストラダムスの大予言」では原子力発電所の爆発(爆発の火炎が派手すぎて、逆にリアルに見えない)なども描かれています。東日本大震災では、入場料を払ってまで見たかった映像の「本物」を眼に絶句してしまいましたが、それから数年経つとまた人類の危機や都市の大破壊を見せ場にした映画がヒットしています。震災、福島第一原発の事故を経て、しかし無くならないこの地獄絵(というエンターテインメント)への興味というのはなんなのかと、人間の不思議を感じます。

 余談ですが、1970年の万国博覧会は、北海道の子どもたちにとっては憧れでしたが、もちろん親や学校が引率できるような距離ではありませんでした。僕の叔父が万博の仕事を手がけていたので、様々な情報は入ってきたり図録をもらったりはしましたが、やはり印刷物などからの想像の域を出ないものでした。万博のパビリオンのいくつかは閉会後、地方などに移築されたことが知られていますが、札幌の北に位置する石狩町(現在は石狩市)にも、1972年にスカンジナビア・パビリオンが移築されてきました。宅地開発のアトラクション的な施設として地元の会社に購入され、コンパニオンとしてスウェーデンから出稼ぎの女性たちが来日しました。親に連れられて何度か行ったことがありますが、なにしろ住宅地開発前の森林にあるのでいつも人気(ひとけ)がなかった印象があります。少なくとも、テレビニュースで見た万博の賑わいは無縁でした。そのうちに、パビリオンが盆踊りの会場になったり、当時熱中していたテレビアニメ「ガッチャマン」のパネルショーがあるというので連れて行ってもらったものの、ペンキで描かれた野立て看板が並んでいるだけで大いに失望したという記憶があります。札幌のホテルでも「月の石」が巡回して展示されましたが、熱が冷めたのか特に感動したという思い出もありません。そういうわけで、北海道にはドサ回りとして万国博覧会がやって来て、劣化した夢が潰(つい)える過程を目撃したという感じでした。それと入れ替わりに(映画でいうとディゾルブで)登場したのが、件のパニック映画ブームでした。

 日本人は幸運というか、巧妙な無意識の知恵というか、戦後という「器」になにかを盛るということを避けてきたといえると思います。戦後民主主義という「器」の精度を上げてきたという考え方もあるでしょうし、「器」を御都合主義で状況に適応させてきたという意見もあることでしょう。たしかにソウルの戦争記念館に行って知るのは、彼の国が戦争と向き合ったの朝鮮戦争だけでなく、ベトナム戦争や湾岸戦争にも派兵しているという事実です。それを「器」の中身と呼ぶのであれば、我々に埋めるようなシビアな、人々が共有できるドラマの存在は虚ろだった気がします。(ちなみに件の戦争記念館の入口には英雄たちの胸像があり、安重根も含められています。)  そういった大きな物語を持たずにすんだことは、戦後の日本が(おおむね)平和だったということで、歴史的には非常に幸福なことです。そこで多少飛躍した仮説を許してもらえれば、国民的葛藤や社会に横たわる諸問題はさておいて、西欧にイメージされる「豊かさ」に向かって大人たちが奔走していた高度成長時代の子どもたち(僕らですね)に共有性の高い体験があるとしたら、それは怪獣やらアニメやらのメディアを通したエンテーテインメントについての記憶ということになるような気がします。それを薄っぺらだというのであれば、薄っぺらだと受け入れるしかありません。
 その薄っぺらな文化の中で、戦争がバーチャル・リアリティー化したのではという疑問については、山口さんに同感です。実際の戦争も武器の遠隔操作やドローンなどの登場で多分にVR化が進行していると報道されていますが、そもそもビデオゲームなどと技術やインターフェイスは同じですから、エンターテインメントと現実の戦争の感覚はボーダレスになってきて当然と思います。前述したように、戦後の日本の映像エンターテインメントはその根っこに「戦争ごっこ」の性格を大きくもったものですから、そもそも親和性が高いものでしょう。ただし、日本の戦後のエンターテインメントを生んできた人たち-僕らの親の世代までは、程度の差はあれ、やはり「後ろめたさ」を持ち、作品の中に希釈していたと思います。(というか、思いたいのです。) その「後ろめたさ」とはまぎれもない現実の戦争体験をもとにするもので、「戦後レジームからの脱却」というバーチャル・リアリティーとは違います。僕らと同じ世代も多いおっちょこちょいな人たちは、またしても状況も歴史的背景も違う国々のそれを輸入して急速に「器」を埋めるべきだと張り切っていますが、「薄っぺらさ」の自覚というスタートは共通ですから、自分の陰画を見るようで気が滅入ります。

 もうひとつご質問のあった、僕らが「その方面」の制作者とならなかった、あるいはなれなかったのか…という理由ですが、個人的な話をすればやはり後者ではなかったかというのが正直なところと思います。
 僕が小学生のころに、弱冠28歳のスティーブン・スピルバーグが「ジョーズ」を引っさげて登場しました。24歳で「刑事コロンボ」のエピソード(往年のSF映画「禁断の惑星」のロボット“ロビー”が登場します)も演出したと伝えられており、映画少年たちのヒーローでした。2011年に公開された、J・J・エイブラムス監督の「SUPER8/スーパーエイト」という8ミリオタクのイケてない少年たちを描くSF映画がありますが、僕もあんな感じのノーテンキな子どもで、自分も26歳くらいには映画監督になっているものだと夢想していたものです。映画雑誌でもスターの記事よりはめっきり映画撮影の舞台裏についての特集などを一生懸命読み、想像上の映画制作にいそしんでいました。240階建てのビルが大地震で倒潰するとか、そういう作品ですが(笑)。  が、その後、致命的に自覚したことは、自分自身に物語を紡ぐことについての興味が(ほとんど)ないということでした。であれば、撮影や特撮のスタッフの道を目指せばよかったのですが、「人間がフィクション(たとえば映画)を生み出す過程」そのものには、異常に興味があったようです。振り返ってみると、テレビの「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」を見ていた幼少期も、ヒーローと怪獣の格闘よりは、その背中のファスナーとか顔や首の(俳優の呼吸用の)空気穴の観察ばかりに熱中しており、またブロマイド(というものが駄菓子屋などで売られていましたね)でも、背景の書き割りがバレている撮影風景などに興奮していました。とりわけ記者会見の写真は、ビルや森林のミニチュアセットにウルトマンや怪獣と、科学特捜隊の隊員と円谷英二御大が並んで立っているというスケール感を無視した…というか実物大の写真は、幼い心の中にモヤモヤ(子どもなので、まだ言語化できない)を残したものです。
 今風に言えば、メタフィクション的なものにやたらと反応する子どもだったということでしょう。なので、上京して浪人生のときに(おそらく伊勢丹美術館で)見たジョージ・シーガルやドウェン・ハンソン、多くの同世代にインパクトを与えた都美術館の「今日のイギリス美術」展(1982)で紹介されたボイル・ファミリーやトニー・クラッグ、「ナム・ジュン・パイク展」、映画ではマヤ・デレンやブルース・コナーに強く惹かれました。そう考えると、現在手がけている作品と、子供のころのエンターテインメントをめぐる興味というのは、それほどずれていないということになります。平たくいうと、同じことをやっているということになってしまいます(泣)。せっかくの「どうして」という問いかけに、「面白いから」と性癖でしか答えられない自分に申し訳なさを感じますが、僕にとってアートとエンターテインメントにボーダーは(あまり)ないということになります。
 そういう網膜的な、あるいはフェチ的なことでいいのか、という真面目なご批判をされる方もおられると思います。が、自らを振り返ってみれば、デュシャンやヨーゼフ・ボイスから学んだりリスペクトすることは重要ではあったけれど、一方で、明治以来の西欧崇拝や戦後の植民地的意識を、自らの中で補強する行為であったような気もします。二百六十余年の(おおよそ)太平のバッファで発酵した、それこそこちらもスーパーヒーロー、妖怪、怪物が闊歩する浮世絵が、時に薄っぺらポップカルチャーなりに、例えば歌川国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪図」などような形で体制批判を行なったほどに必然性があるように感じられない近年の自分がいます。
 が、同時に、「器」や地獄絵について長々と書いてきた理由も少しご理解いただけるのではないかと、かすかに期待しています。レトリックに人間の本質が現れるというか、主題そのものではなく、主題をめぐる人や社会の在り方に興味があると言えば、わかりやすいでしょうか。ですから震災や原子力災害に関しても、その有りよう(人はなぜ懲りないのか)を考えてみたいのです。

 いよいよ展覧会まで二ヶ月を切りました。
 今回の二人展は、会場を二分して展覧会を行うというよりは、二人で一つの空間を展開するということができればと願っています。煌びやかに、しかしバラバラに食物が配置されている重箱というよりは、虚ろであっても、僕らの時代意識を共有できる洞窟のような「器」が構成できればと思っています。

2018年1月2日
伊藤隆介拝

2017.12.16
2月の本展に向けてスタートした伊藤隆介さんと 山口啓介さんの往復書簡。更新しました。

山口啓介書簡2

拝啓 とても気持のいいご返信ですね、待っていたかいがありました(笑)。先日、伊藤さんに再会させて頂いた時にも少し感じたのですが、一種のバランス感覚の良さを感じました。それに比べると自分などはアンバランスだなあと思わざるを得ないところがあります…。
 文中の「ゴジラさん」というマンガを未読ですが、作者が作品の終りの方で「ああ、ありゃ娯楽だ」と老父に言わせて“一蹴されてしまいギャフンとなる…”という終り方は読み取り次第でいろいろと何か引き出せるような気がします。娯楽って、とくに私たちのような人間にとって何なんでしょうね?ともかく、私たちの世代に関わらず、生まれたときからの娯楽文化、エンターテイメントともボップカルチャーとも表記される物ものに囲まれて生きているのが現在なので、改めて問うことも野暮な感じかも知れません。
 ただ、娯楽文化が今のように大きく産業化したのは、私たちの人生がそこにすっぽり入っているとは言え、歴史的にはそう古いことでもないと思うのです。たとえばロックの創始者のひとりとして知られるチャック・ベリーが亡くなったのは今年の三月十八日で九十歳と報じられたので、ロックの歴史はわずか一世代の人間の生涯に含まれるとも言える。 初期の映画が無声だったように音の複製技術は映像より遅れて始まっているので、今のような音楽産業は戦後から始まったのでしょう。映画産業は戦前からあるようですが、最初にハリウッドの映画スタジオができたのは一九一一年だとされており、東日本大震災があった年から百年前です。一通目の手紙で触れた円谷英二はハリウッド映画の「キング・コング」に、手塚治虫にとってはディズニーのアニメ「バンビ」に大きな影響を受け、最初から娯楽を目的として産業化されている映像作品の中に、自分たちが進む道を見つけています。おかしいのは、彼らから物心ついた頃より影響を受け、またそのような娯楽文化産業に囲まれて育ったはずなのに、ではなぜ私たちはそのような方面の道に結果として進まなかったのでしょう……?

 ―-終戦から10年も経たずに、戦禍は(おそらく共感を含みながらも)エンターテイメントとして消費されつつあったということです。娯楽作品に戦争の記憶を注入していった手塚や円谷といった人たちにも、おそらくやりがいと共に、共同体験を換金していく「後ろめたさ」はあったのではないかと思われます。それが現実を生きるというリアリズムですが、作品を真に受けた僕らの世代は、その「なんだかわからないもの」が確かに刷り込まれて、思考や行動の規範のように過剰に成長してる気はします。ーー

 伊藤さんのお手紙のこの部分、確かに、ある核心を突いていると思われます。お手紙に促され少し調べてみますと、円谷英二は戦時中に戦意高揚映画に加担したとして一九四八年、四七歳の時にGHQにより公職追放され東宝の職を失い、五二年にその解除を受けるまで貧窮した様子です。終戦後十年も経たない一九五四年の「ゴジラ」の“空前のヒット”は、邦画初の全米公開作ともなり、その意味では円谷だけでなく、敗戦によってその周りにいた似たような抜き差しならない事情を抱えた当時の人びとの経済や気分の一旦を救ったと思われます。ゴジラが公開された年の日本経済の状況を調べると、一九五〇年の朝鮮戦争特需により一九五三年後半ごろには戦前の最高水準を上回って、高度成長期の始まりとされている一九五四年十二月とぴたりと重なります。ゴジラが公開されたのはその直前の十一月三日とあるのですね。その後この高度成長期と併走するように、この作品以降、円谷の関わる特撮映画は東宝のドル箱となり、ビジネスとして定着するのでしょう。そして、一九六三年に東宝と契約を解除して独立し円谷特技プロダクションを設立する。
 六六年の一月には「ウルトラQ」が、同年七月には「ウルトラマン」がテレビ放送が開始されています。私は当時四歳ですが記憶に鮮明なので、恐らく間もない再放送分を見ていたのかも知れませんね。そのような円谷英二と同世代の戦中・戦後の生活を想像すれば、「換金していく」生きていくリアリズムへの肯定と、恐らく私たちが実感できないような複雑な感情も重なっていたと思われます。そして、少なくとも彼ら戦争時に既に大人だった人間にとっては、高度成長の経済的享受の一方で、戦争で失われた人間の命に対して大なり小なりの、一種の後ろめたさを共有していたかも知れず、それは普通は沈黙というかたちで過ごされた。そういったものの残滓や思念が、その世代の表現者のつくる作品に反映するということは、やはりありうると思うのですね。
 しかし、このような戦争の実体験を経た“後ろめたさ”は、円谷が一九七〇年に死去した年、これは大阪万博があった年でもありますが、この頃から日本社会からは次第に忘れられていくのだと思うのです。戦後二十五年以上も経てば、若い世代は全て戦争を知らない世代となっており、当然といえば当然なのでしょう。当時、大阪に住んで八歳になったいた私は少なくとも二回以上、万博会場に親に連れて行ってもらった記憶があるのですが、そこには絵本やアニメでしか見たことがないようなワクワクするバラ色の架空の未来の街が広がり、強烈なイメージをこども心に受けました。中でもウルトラカラー(厳密には銀地に赤ですが)のように赤と白でペイントされた螺旋状の動きをもってゆるやかなカーブで尖塔となっていくソビエト連邦館、それに対比するようにフラットな楕円形状で、柔らかい感じに見える平たい白い屋根と灰色の壁をもつシックなアメリカ館が共に人気で、一時間以上並んで入ったように思います。共に宇宙船が展示されていましたが、アメリカ館にはアポロが持ち帰った月の石が展示されていて、それは大人たちが騒いでいないとこどもには普通の石と見分けがつかないくらい小さなものでした。しかし、会期を通じて何となくずっと惹かれていたものがありました。
 太陽の塔です。あの形状とサイズ、色彩と三つの顔。なぜだか太陽の塔の内部に入った記憶は残っていないのですが、恐らく繰り返し絵に描いたものが太陽の塔で、とくに頭と胴体、そして背中にある深緑色の、三つの顔にとても惹かれていたのです。白の胴体に赤の稲妻状のラインが入っている太陽の塔は、これもウルトラカラーで、頭の無機的に整った黄金色の顔もマンに似ているのですね。岡本太郎が同時代のサブカルチャーであるこどもたちのヒローをどこまで意識していたのか…あれはこどもの目には手を広げて飛び立つウルトラマンが具現化したものです。
 後に大阪万博に「人類の進歩と調和」というテーマが設定されていたことを知りましたが、岡本がそのテーマに反発して原始の土偶的な巨大なシンボル(但しウルトラ的な装いと表層も利用して)を打ちたてて、お祭り広場の天井以内で収めるため高さ三十メートル以内と指示された規定を聞いて「七〇メートルだな」と豪語したことなどの伝説を含めて、これはどのような幸運が働いたのか、芸術家としての見事な処し方だと思う他ありません。国家プロジェクトという権力、資本の力と科学技術を総動員させて戦後の日本社会の繁栄を示す祭典のど真中で、一見それを装いまた資本と技術を集結させてつくられた、実はテーマに反逆もし、用意されたお祭広場の天井もブチ破った(実際にはドームを乗せるための穴が開けられていた設計を利用したとしても)こと、この矛盾する両立は、実はあのお祭騒ぎの渦中では矛盾としては見えにくいものですが、あの大きなイベントの後、結局、今に残されているのが太陽の塔だけで、何か祭りの後にその矛盾を雄弁に語りだしているように見えるのですね。ただ、あの塔の異なった様相をもつ三つの顔と、なぜ顔が腹や背中にもあるのか…ということも含めて、確かにこどもだった自分が何か不穏な気配を感じて惹かれてたのではなかったか…と反芻している現在の自分自身がいるのです。

 さてどうも少し話がそれてしまいました。私がむしろ率直に思うもののひとつは、私らの世代あたりから、多くの日本人にとって戦争はリアルではなく、バーチャルリアリティーの世界に移行したということです。もちろん近年はさらにこれが加速しているのです。二つ目は、バーチャルという言葉が関係を結ぶ媒体という意味で、それは娯楽産業の提供する娯楽文化として消費されているということです。そして三つ目は、最初に書いた問いである娯楽産業で囲まれて育った私たちが、なぜ結果としてそちら側の制作者とならなかった、あるいはなれなかったのか…という問いです。そしてそれは、芸術と芸能の差異の有効性が試される試練と重なるのでしょう。

   ちょっと唐突のようですが、私は兵庫と東京を車で行き来しています。深夜の運転はときに眠気を誘い、一瞬だけ眠ってしまうということがあるのですね。直後、ヒヤリとします。平和な日本で文字通りの命がけの仕事というのは特殊なことに限られていると思いますが、誰でも車の運転をしているときは命がかかっているのですね。危機はいつも紙一重ということで、普通はそれをやり過ごしているから生きているわけで、その限りですぐ忘れてしまうし、でなければ車は運転できません。比較する規模は全く異なりますが、東日本大震災の福島第一原子力発電所の事故も、事故当時の状況が知られる程に、あるいは紙一重だったとも言える。しかし、現在、国が東京オリンピックに邁進できるのも、同じ事情ではないでしょうか。テレビからコマーシャルが消えた間、事故直後の半年から一年ぐらいは人びとはシリアスでした。しかし更なる爆発が回避されたと思えるようになってから、一見、平穏で無事なことが保たれているように見える中では、人間はなかなか危機の実感を反芻したり、先取りできないものだと思うのです。その小康状態の中で、当然のように個人のレベルでは失職するとか、明日から食って行けるのかというような経済的な不安が最大となる……にも関わらず、大きな危機に対しての気配は日常のリアリズムで覆い隠せるほど小さくも、遠くもない……という感覚がオリのようになって沈殿しているのではないでしょうか?

   少し長くなりました。私の方は先程の三つのことについて少し考えを進めてみたいと考えていますが、思わず頂いたお手紙を拝読した熱の冷めないうちに一気に書いてしまいました。これにも囚われず、伊藤さんのペースで、次回のご返信を大変楽しみにしております。                                         敬具

二〇一七年十一月二十一日                                  山口啓介
伊藤隆介様

2017.12.11
2月の本展に向けてスタートした伊藤隆介さんと 山口啓介さんの往復書簡。更新しました。

伊藤隆介書簡1
山口啓介さま

 あれから12年も経ったのですね。
久々にお会いした山口さんの印象は変わらず、嬉しく思いました。

それから一ヶ月が経ちますが、返信をお待たせして申し訳なく思っています。
というのも、山口さんが手塚治虫や円谷英二について指摘された「後ろめたさ」という言葉については、実は東日本大震災以来、今回の二人展までずっと感じていることであり、それを言語化するのが難しかったためです。現在もうまく説明できるかわからないのですが、我慢して読んでいただければと思います。

 2011年の3月11日、僕は展覧会のため香港にいて、オープニングの最中に震災について知りました。ブルース・リーの「ドラゴン怒りの鉄拳」のノラ・ミャオ(ドラゴン映画の美少女)がいかに可愛かったとか、くだらないことを力説していたんですが、日本が大変なことになっているという話を聞きホテルに戻ると、テレビでは濁流が街や港、農地、飛行場と、あらゆるものを飲み込んでいるのでした。
 2001年のアメリカ同時多発テロのときは、テレビ中継の映像に多くの人が「(爆発シーン満載の)ハリウッド映画みたい」という感想を持ったと思いますが、東日本大震災で記憶に残っているのは、北斎の「濤図(なみず)」やゴッホの「星月夜」のような、のたうつ動きー印象としてはフラクタルに拡がる虚空間に、垂直・水平方向で作られている建築物ーつまり人間の論理性といったものが引きずり込まれていくような、目眩のような感覚でした。

 翌日は帰国の予定だったのですが、今度は原子力発電所の爆発のニュース映像があふれ、日本に帰るのは中止したら…と当地の友人たちに言われました。しかし、むしろ正論を聞くほどに、これは日本に帰るしかないだろうと思いました。(ちなみに日本に着いてみたら、原発の爆発の映像はなぜかほとんど流れていませんでした。)
 しかし、肉親が心配だったから、とか、友だちの顔が目に浮かんだから…と言えばウソで、途方に暮れながら作法の根拠としたもの(というかイメージした行動)はネビル・シュート原作の映画「渚にて」(1959)や、戦時中は海軍少尉だった松林宗恵の「世界大戦争」(1961)といった、僕らが生まれた頃の核戦争を主題とした映画でした。これらの映画では、核戦争の災禍を外地で逃れて生き残ったはずの人たちが(なぜか)最後には汚染された故郷に帰っていくのです。僕の気分もそういう感じだったから、としか言いようがありません。この「そういう感じ」は、若い人にはピンとくるかわからないのですが、冷戦時代の子どもである山口さんにはご理解いただけるかもしれません。
 とはいえ、悲壮な決意などではなくて、「変だなぁ。安全な所に留まる方がいいんだがなぁ」と、同時に自分の判断には自分でも不思議に思っていたのです。行動原理というか、ピタリとハマるピースがそれしかないから…という感覚です。つまり、山口さんが指摘されるところの「まず無意識のうちに訪ねる記憶の最古層」に突き動かされたとしか思えないのです。

 しかし、これは相当、滑稽な話です。
マンガ家の桜玉吉さんの作品に「ゴジラさん」という日記マンガがあります。桜さんの人生におけるゴジラにまつわる思い出(離婚についてなど)が綴られて切ない作品で、オリジナルの「ゴジラ」(1954)を封切りで観たという父親の話に共感を得るというエピソードで終わります。そこで桜さんは、戦後の日本人のメタファーとしての「ゴジラ」について熱っぽく語ってみるのですが、老父には「ああ、ありゃ娯楽だ」と(無邪気に)一蹴されてしまいギャフン…となります。
 終戦から10年も経たずに、戦禍は(おそらく共感を含みながらも)エンターテインメントとして消費されつつあったということです。娯楽作品に戦争の記憶を注入していった手塚や円谷といった人たちにも、おそらくやりがいと共に、共同体験を換金していく「後ろめたさ」はあったのではないかと思われます。それが現実を生きるというリアリズムですが、作品を真に受けた僕らの世代は、その「なんだかわからないもの」が確かに刷り込まれて、思考や行動の規範のように過剰に成長してる気はします。信仰などなら成長する中で反発や和解があったりするでしょうが、実体がないにも関わらず、「それ」は自分の影のようについてくるのです。

 香港での体験については、今となっては、サブカルで生き死にを決めてよかったのか(笑)という反省もありますが、もうひとつ、もやもやとした気持ちもありました。 未曾有の災害について、当時の石原慎太郎知事は「天罰が下った」と言い放ちました。責任ある人の発言としてはデリカシーがなく、論外と思いますが、文学者としてのこの人の物言いには、納得する自分もいたことも白状します。
 震災の濁流の様子は、生活や情動に突き動かされた人たちが龍神の怒りに触れて洪水で流されてしまうという泉鏡花の戯曲、僕らの世代にとっては篠田正浩の映画「夜叉ヶ池」(1979)も連想させました。もちろん「天罰」とは東北の人々に対してではなく、戦後、多くのことを怠ってきた日本人の在り方そのものに対するもので、被害にあった東北の方々は自分たちの「身代わり」になったという感情にかられました。それを思うとと「おめおめとここ(外国)に居られるか」という罪悪感があったのは事実です。
 罪悪感はその後も続いていて、震災に関するチャリティー展に違和感があり、ほとんど断らせてもらったのも同じ理由からです。生活を通して、市民や勤め人としては相応の努力はしたと思いますが、普段でも緩慢に産業廃棄物を作っているような作家という人間が、「人助け」を「表現」に引っ掛けるのは不真面目な気がしたのです。罪悪感と対になる贖罪があるとしても、それは自分を野放図に解放するための創作を通してではないし、表現そのものもそういった機能を持つもの(なぜかカラオケを連想します)ではない気がしました。
(これは僕が感じたことを書いているだけで、チャリティー展を企画したり出品した友人たちの善意にケチをつけようという意図では、もちろんありません。自分が流通価値があるものを作れる人(要するに売れている人)であれば、この局面への効率的なコミットメントとして、積極的に表現を換金したかもしれません。)

 清水ご夫妻のご提案に応えて、なぜ山口さんとの二人展を行いたいと思ったかというと、震災について話すことの少なくなった自分たちの生活に、忘れっぽさを再確認しているからと言えます。
 あの日、原発事故に多くの人が恐怖したと思います。死を意識することで、震災について当事者になったと言えるかもしれません。そこから自然に「がんばれ、東北」「がんばれ、福島」という応援へと繋がったのは理解できるのですが、それがいつか「がんばれ、ニッポン」に変質していき、そのためにオリンピックを・・ということになった。その飛躍がどうも理解できないでいます。
 震災の直後は、電力不足になるということで、節電のためネオンが消されて随分暗くなった新宿は、シカゴやストックホルムが普通の街というのであれば、ずいぶん普通の街になりました。不安でしたが、それはなにかのギャンブルから降りた気持ちのような、安堵する闇でもありました。が、それから1年が経った新宿は震災以前よりも明るくなり、その根拠はエコな特需となった LEDの使用で消費電力が1/3になるのであれば3倍明るくしてもよいという思考回路のようでした。
 復興という言葉を使う人もいるかもしれませんが、恐怖ですら10年も経たずに怪獣映画やオリンピックにしていくのが僕らです。むしろ「後ろめたさ」を忘れたくないため、今回の二人展をやってみたいと思っているのです。

 せっかくの山口さんとの書簡という機会ですが、自分についてばかり、どうにも積み上がらない話を長々を書いてしまい申し訳ありません。
展示の空間についても書くつもりだったのですが、そちらは次の手紙に回したいと思います。

 返信に時間がかかってしまったことを再度、お詫びします。  が、おかげでこの一ヶ月は、ずっと脳内で山口さんと会話をしていたような気がします。
 その間のことですが、先々週は仕事場に貼ろうと思いつき、ヤフオクで田淵幸一のプロ野球カードを買いました。タイガースで背番号は22です。
 先週は、若いときに影響を受けた神戸在住のマンガ家・伊藤重夫さんが1986年に発表された「踊るミシン」が再販され、記事を書きました。
 今日、実はこの原稿を持ったまま、仕事で神戸空港に来てしまいました。
どんどん近づいておりますので、懲りずにお付き合いいただければと幸いです。

奈良にて

伊藤隆介拝

2017.11.28
2月の本展に向けて伊藤隆介さんと 山口啓介さんの往復書簡がスタートしました。こちらでもご紹介させていただきます。

山口啓介書簡1
拝啓 先日10月24日は大変久しぶりに再会させて頂きました。二〇〇五年に開催された福岡アジアトリエンナーレ以来ですからあれから十二年も経っています。
 今回、WATERMARKの清水良匡・典子ご夫妻から伊藤隆介さんとの二人展の打診があり、最近の伊藤さんの作品動画を拝見させて頂きました。その際、福島第一原子力発電所の原子炉格納容器や回転するミサイルの模型を使った映像インスタレーションを初見し、少し驚きましたが、清水ご夫妻による企画が「IMAGINE FUKUSHIMA」と題された展覧会であるということですから、伊藤さんと私をつなげられた意図が直ちに了解されました。  ご夫妻は二〇一一年の東日本大震災の翌年と二〇一四年にチャリティーを兼ねた支援展を開催した後、二〇一六年は意図的に組み合わされた二人展を開催され、今回はその二回目となるようですが、「IMAGINE FUKUSHIMA」展としては都合「第四回」とされている…。そこにはチャリティーとしては成立しづらくなったことの、この社会の空気の流れが反映しているはずですが、そのこととは別の次元で、美術作品をつくろうとするアーティストの動機とか、その制作と制作された作品の、本来的な容量とか社会で引き受けられる役割が、どうも一般的な今ここでという期待とズレてしまうことがあると思うのです。
 この点、芸能と広く呼ばれているもの、ポップカルチャーは迅速に対応していますよね。私見ですが、戦後にイギリスで始まりアメリカの消費社会を背景として起こったポップアートは、このズレを一気に短縮して乗り越えようとする試みだったのではないかと思えます。その後、ベトナム戦争の泥沼化などアメリカ社会の変化を受けて、六〇年代の終りには衰退の兆しを見せてそれに続くさまざまなアートの変遷の中、ポストモダニズム時期のあるアメリカの批評家が”結局わたしたちはポップアート以後の新しいアートを見ていない”…と呟くような状況、つまり少なくないアートとアーティストの側には、このズレを解消したいという欲望が、イズムや価値観、表現の変化にあっても、実はその後もずっと疼いている……と思えるのです。加えて、現在の芸能はさまざまなテクノロジーの進化と共に芸術化したエンターテインメントに見え結集しているように思え、芸術のために芸能をモチーフにしたポップアート時代と比較すれば、芸術と芸能の境界はより曖昧にも、一部で溶け合ってもいるようにも見えます。
 何か助走もなく最初のお手紙で相応しい書きぶりでなく恐縮致します。展覧会の準備として伊藤さんより往復書簡のようなもののご提案があったように聞きました。偶然にも、先日お会いした際、ご夫妻が伊藤さんに手渡された新聞紙大のペーパーは、加納光於さんと私の往復書簡を印刷したものでしたが、加納さんは私の父と同じ歳のなので、あのペーパーは父と子の世代間でのやり取りとなっている……それに比べて伊藤さんと私は一歳しか違わない同世代なので少し先走っているのかも知れません。

 私の生まれた一九六二年というのは調べてみると、この年の十月から十一月にかけて冷戦下でキューバ危機が起こり、人類史上で最も全面核戦争寸前まで進んだ年ともいわれ、一方では同じ十月にはポップカルチャーの歴史的なアイコンであるビートルズがレコードデビューしているのですね。翌年の一九六三年の十一月にはケネディ大統領がダラスで暗殺され、テレビの衛星中継が最初に流したニュースはこのケネディ大統領暗殺のニュースだったとされています。同じ年、テレビアニメとして初の三十分枠として「鉄腕アトム」が放送開始、一九六五年には初のカラーアニメ「ジャングル大帝」が開始されたとありました。
 こどもの頃の記憶では、最初の頃はテレビは白黒で見ていて、ときどき画面の下にカラーと表示されていた番組があったことを覚えているのですが、気がつけばいつの間にかテレビはカラーとなっていたというような感じでした。日本における最初の白黒テレビ発売は一九五三年とされ、一九六〇年代の始めには一般家庭の生活の中にテレビが定着していたでしょう。つまり物心がついた頃にはこども向けアニメや実写番組も放送開始されて、ずっとテレビの前で過ごしている最初のこどもの世代の登場が、実はわたしたちだったのではなかったでしょうか?私自身はやはり初期の、今から思えば牧歌的なテレビっ子だったと思わざるを得ません。
 ところで、手塚治虫(一九二八-一九八九)がアニメ「鉄腕アトム」を発表したのは三十五歳の時となりますが、前年には先述のようにキューバ危機が起こっています。手塚は活動の最初から児童文学の作者のように、こどもに向けて描いていくという決意を感じさせる、まず漫画家だったと思うのですが、最初のテレビアニメとして手塚がアトムを選択した動機は言うまでもなく原子力(アトム)の平和利用というモチーフであり、それをこどもたちに伝えるためだった…その背景となるキューバ危機に垣間見られる世界の終末感は、戦争と敗戦の惨禍を若い時代で実際に経験した手塚にはリアルでないはずはないだろう…と感じるのです。同じ時代を生きた当時に若い世代の表現者たちが、こどもに向かって何かをつくるとき、そのような気分がどこか共通して現れていたのではなかったか?―たとえば手塚よりも上の世代であり、戦争映画で特撮に関わり戦後にゴジラの特撮で著名な円谷英二(一九〇一-一九七〇)が起こした円谷プロダクションで制作されたウルトラQ、ウルトラマン、ウルトラセブンなどの初期のウルトラシリーズにも感じられる、画面に満ちている一種の後ろめたさと暗さ。そのような戦争と地続きでもあった危機感の表出はSFのかたちを借りて、彼ら送り手の受け手、読者・視聴者であった幼いこどもの私自身の内に、最初に刻まれた気配のようなものだと思います。この気配が、私自身が何かものをつくるとき、まず無意識のうちに訪ねる記憶の最古層にどうもあるようでもある……ということから、実は現在から半世紀近くも前の記憶を問題にしている自分自身に改めて気づくのです。今を生きる自分自身にあってこの時間的な大きなズレ…そしてそこに重なるような現在の今ここ…。
 とめどなく書いてしまいましたが、同じような経験もされているのではと思い、またこれにも囚われず、ご返信頂ければ幸いです。

 さて、先日の打ち合わせにより、今回の展示は会場全体を祠、あるいは洞窟に見立て全体を暗くすること、カセットプラントが設置される窓だけは光を透すので、それが簡易的な植物のステンドグラスのようなものになると思われます。その暗闇の空間に、伊藤さんの鯨の模型や会場に設置されたオルガン使った映像インスタレーションが数点、私の《震災ノート》の五年分程のノートを見開きにして数秒単位で撮影した画像を投影する、これも一種の映像インスタレーションを1点(蚊帳状の空間)、そのノートの原本の一部をアクリルケース内で展示、及び実際に手に取って読めるようにしたコピー冊子数冊の予定ですが、以前よりご提案させていただいているような、山口の制作した《歩く方舟》のマケットを使用して、伊藤さんの模型を使った映像インスタレーションと融合させたような試みの作品ができれば嬉しいと思います。それは小さなもの(マケットは必要あればより小さいものも用意できると思います)でも結構ですから、ご一考できればと思いますが、いかがでしょうか?
 また、コピー冊子はカセットプラントの壁の前に長椅子(あるいは椅子数個)と、必要あれば手元を照らすスタンド数個を設置して、訪れた人がちゃんと読めるようにしたいと考えています。以上取り急ぎ第一信としてお送り致します。    
                                                      敬具

                                       二〇一七年十月三〇日   山口啓介
伊藤隆介様

2017.5.4
コートギャラリーさんのご厚意により会期二週間となりました。 伊藤隆介さんと 山口啓介さんによる二人展を開催予定です。